先日、新元号の発表がありました。令和とのことです。
これは、私が小学生のころから気になっていた事柄です。悠久に続いていくこのシステムは、いつ、何に、どのように変わっていくのかがとても気になったものでした。そして、次は何になるのだろうと考えていたものでした。
元号の発表は、25年ほど前に生じた疑問が一つ解決した瞬間でありました。
さて、今回はお仕事にお休みをいただきまして、名古屋の地に日帰りで行ってまいりました。
名古屋は私が幼稚園まで過ごした地です。家から幼稚園までの道は感覚で覚えていたので、記憶とは不思議なものだなと感じた次第です。
この旅は前日の夜に決めたもので、その場で新幹線のチケットを予約し、早朝に身一つで出かけました。チケット情報はSuicaと連動し、AppleWatchでスムーズに改札を通りぬけ、そのまま名古屋まで行くことができました。この便利さとスピード感は素晴らしいと感じたものです。準備も調査もなしに、行こうと思ったら数時間後には実際に行ける。素晴らしい未来に生きていると感じます。
暮らしていたアパートはすでになく、新しいマンションになってしまっていましたが、その目の前にあった駐車場はまだ健在で、そこで自転車の車輪を外す練習をしていて何度も転んだのを覚えています。
「意識」というものが、この一年では解決できなかった課題でした。過去の意識と現在の意識は同一のものか、異なるものか。
考えは変わるものであるから、過去と現在の意識はきっと異なるものであろう。しかし、そうであるならば、「生じえなかった意識」はいったい何なのか。
例えば、パラレルワールドがあったとして、名古屋に行った私といかなかった私がいたとします。この二人の記憶や体験は異なっているはずですから、意識も異なるはずです。
ここに名古屋に行った私がおります。さて、私から見た「名古屋に行かなかった私の意識」はいったい何なのか、ということです。
それは「生じなかった意識」といってもいいかもしれません。
もう少し掘り下げると「生まれなかった私」というものが存在するはずで、その差分はなんだろうな、ということが分かりませんでした。
ただ、記憶が意識をつなぐキーワードのような感じがしています。過去に抱いた記憶とつながるとき、意識もまたつながっているのだろうな、と。30年前の意識と今の意識は、私が名古屋に行ったことで少し繋がったのだろうなと思いました。
前置きが長くなりました。昨年のテーマは「悠揚」でした。揺蕩う様に流れながらゆったりと登っていけたらなという考えでした。動きも変わっていくだろうからと。
結局のところ、忙しかったからなのか、ゆったりと過ごすことができたかというとそんなことはなかったのですが、動きが変わっていくというところはその通りで、身の回りのいろいろな物事が変わっていった年だったなと思います。
まだあまりそこに適合できてはいないのですが、その変化を見つめながら今年も進んでいく必要なあるのかと考えております。
そこで、今年のテーマは「静謐」にすることにいたしました。落ち着いて世界と関わっていくというものが私の目指すところです。その静けさの中で、物事を見つめて自分なりの進路を見出していこうと考えております。
ここで大事になるものが「拠り所」かと考えます。根拠となるもの、考えの基底になるものです。この「拠り所」をいかに構築するか、いかに定義するかが落ち着いた世界を実現するために必要になるものだと思います。それが、法律なのか、宗教なのか、正論なのか、良心なのか。この「拠り所」をどのように定義して、構築するかがこの先を進んでいくための一つのキーワードになると考えていますので、「拠り所」を考え、それをベースに、新しい未来が見えるよう、Around Thirty最後の世界を生きていこうと思います。
ところで考えてみれば、このHappyBirthionシステムも元号に近しいのかもしれません。何か目指すものや意図を文字にして定義して掲げていく。次のテーマが何になるのか、私自身楽しみであります。そしてそれはきっと未来の意識がきちんと紡いでくれるものなのでしょう。
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[…] しかしながら同時に予見した通り「拠り所」はやはり大事なものであり、この概念の獲得にはまだ至っていない、というのがこの一年の結論でありました。 […]