HPがInfoseekにあったころの日記は、現在データベース化待機中となっています。
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細い布切れがあったとする。
この布切れで作れるものとして、2つの形が上げられるだろう。
1つは、メビウスの環。布切れをわっかにするが、この際に半回転ひねるものである。
そして、もう1つは、リボン。特に説明するまでもなく、普通のリボンである。
この両方とも、ただの一本の細い布切れに比べれば、立体感があり、存在感もあり、そこに何かの世界がある、美しい形※1であるといえるだろう。
さて、この2つの形であるが、両方とも美しいと思う一方、リボンに対してはさらに『かわいい』というプロパティも属していることが最近分かった。
これは、メビウスの環には無いものである。
なぜ、数学的な構成がかわいいに繋がるのであろうか?
これは、『リボン=かわいい』が何らかの陰謀により意味づけされていると考えることができる。
それは、『美しい』は、自然界において、神やらなんらかが作ったとしか思えない光景に対して使われることに対し、『かわいい』は、子どもの存在と仕草に対して意味づけされるものであると考えるからだ。
メビウスの環やリボンといった、対照的であり、自然に存在しないものに対して『美しい』という表現は問題ないが、これに対して『かわいい』という表現をつけるのはいささか意味不明なことであろう。
この陰謀とは、なんだろうか。
昨今では、様々なキャラクターやモノなど、『作られたかわいさ』にリボンがたくさん付いているのが、ひとつの原因ではないだろうか。
このため、『子ども=かわいい』『子ども=リボンをつける』※2という条件から『かわいい=リボン』が意味づけされ、独立した、と考えることができるだろう。
現在使われている子ども以外につけられているリボンは、全てこの解釈『かわいい』という要素のみを使いたいがために(そして増幅するために)使われていると考えられる。
このため、リボン単品のみで『かわいい』という判断を下し、その構成要素全体も『かわいいもの』として、判断してしまうのであろう。
これは、思考汚染である。本人が意図しない範囲※3から、本人の意思に対して固定化された価値観を植えつけてしまう。
本人はそれに気づかず、その価値観をあたかも初めからあったかのように、振舞ってしまう。そういうものである。
特に、情報化されたこの社会では、これは顕著である。そこに名前がありさえすれば、すでにそれは思考汚染の対象となる危険性を秘めている。※4
さらに、名前が無いものには、『新たな名前をつける』ことで、次々と対処されていく。これはもはやレッテルに等しい。
そしてさらに、この汚染を除去することは難しい。普通はそれをしようとも試みない。
なぜなら、その思考が『当たり前』だと思うからだ。リボンを見るたびに『はて…なぜこれはかわいいのだろうか…?』などと考える人間はほとんどいない。
リボンは『かわいい』モノとして、当たり前であるかのように、そして共通認識であるかのようにそこに存在してしまうのだ。
文化的な生活を営む限り、この汚染から逃れることは不可能である。そこに言語がある限り、かならずこの汚染は発生するからだ。
この汚染から身を守るすべはただ一つ。メタ自分を創ることである。
メタ自分とは、『自分を認識する自分』である。※5
これによって、自分自身を常に考え、その行動・感情は何処から来ているのか、をモニタリングする必要がある。
自分の行動の本当の理由が分かれば、自分自身を統制し、物事の本質を見る力が、少しだけアップするかもしれない。そうすれば、汚染には多少強い耐性を手に入れることができるだろう。
さて、冒頭のほうで『かわいい』の自然界における定義はできた。
そこで課題。では『かっこいい』の自然界における定義とは、一体何なのだろうか?※6