HPがInfoseekにあったころの日記は、現在データベース化待機中となっています。
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久々にまとめ。たまにどっかと被っているかも。
本日はふと、目を完全に閉じてお風呂に入ってみたくなりました。洋服脱ぐところから。
お風呂ならば、髭剃りの刃にさえ気をつければ、あとは特に問題は起きないはずです。
お風呂という狭い空間で、手だけを使って世界を見る。とても楽しいものです。
目で見るというのは、触らなくても分かるということと、記憶の補助の2点でしかなく、それらはこの狭い空間内ならば、手だけで補うことができます。
モノの
見た目は特に問題は無く、認識できるあたりに存在してくれればいいのです。たとえば、我が家の座るやつ(お風呂場の椅子というかなんというか)は長方形なのですが、この向きはどっちだってかまいません。斜めだっていいのです。
モノの位置の秩序にはほとんど意味が無く、ただ機能を果たしてくれればそれで満足です。
ちょっとずれていようが曲がっていようが、見えないのですから。整合性と位置の美を認識することができません。もしあるとすれば覚えやすさでしかありません。
シャンプーもリンスもどうでもいいのです。見えませんから。それっぽい動作を提供してくれればいいのです。
少し間違えただけでも特に問題が無いと(私は)思っています。
重要なのは、存在できること。つまりinputとoutputができること。
私が幼児期怖かったものは、『死ぬこと』
しかし、年を取るにつれ、それは怖くなくなりました。なぜならば私は死を認識できないから。そう、寝るのと同じように。
あるとすれば、そのときに生ずるかもしれない痛みに対する恐怖のみ。
その代わり、私が一番怖かったものは、『目を失う』こと。そして、その次に『指を失う』こと。
目を失ったら、私は生きていくことができません。何も認識できない、何もinputが無い。そんな所では、希望を得るのは困難であると感じました。
また、指を失っても、私は生きていくことができません。何も作ることができない。何もoutputができない。これも希望を得るのは困難であります。
しかし、本日、仮に目を失ってみて、そうではないかもしれないということが分かりました。
見えなくても見えるのです。いろいろ。
大事なのは、記憶すること。そして、耳からinputすること。
確かに、今私が見れるような素晴らしいものはinputできないでしょう。しかし、inputが完全に無くなるわけではないようです。
ちゃんと生活するためには、
補助してくれる人が必要ですが、でもなんとか生きていくことはできるでしょう。
多くのものを捨てなければなりませんが、しかし、克服できる以上、それは恐怖ではないですね。
さて、そこで、新しい恐怖『認識できなくなること』が表れます。
年を取って、あるいは何かの事故で、自分が認識できなくなるのはちょっと怖いです。
でもよくよく考えてみると、それは死と等価になります。自分が認識できなくなるという状態を認識することはできません。
ということは、それすらも恐れる必要は無いのですね。
では何を恐れればいいのでしょうね。
永久の拷問。第3者への危害。世界が消えること。
現在の私の恐れているものは、『永遠に生き続けること』です。
永遠に生きる世界は、まさに地獄でしょう。数年はいいです。でも数万年後、どうなっているか分かりません。
死なないというのは、どういうレベルなのでしょうかね。永遠の苦痛?それとも、魂の束縛?
とにかく、不老不死は私は願いません。いつか予測できず、認識できずに、死んでしまいたいのです。
この『いつか』というのは重要です。決定されてはいけません。私は、残りの人生を有意義に過ごすのではなく、いつもどおり普通に(しかしゆえに充実して)過ごしていきたいのです。
死後の世界は知りません。その後銀河系がどうなるのかも分かりません。でもとりあえずは、また収束してビッグバンが起きて、というような永遠の繰り返しを想定しています。
もっと生きたかった、という考えは不要です。それはいつになっても叶いません。今までやらなかったことは、今後もやらないでしょう。
生きるとは、記憶の連続だと思います。
生きる意味、は考えることができません。むしろ、人間になったときに、それは捨ててしまったと、私は思っています。
しかし、じゃあ今すぐ死ね、はあまりに乱暴すぎます。『生きる意味が無い ゆえに 死ぬ』は成り立ちません。理由にはなりえません。
では何で生きているのか、それは、死ななかったからです。
いつかは死ぬのだから、それまで生きてみるのは面白いかもしれない。ただそれだけの理由です。
生きがいとか、私は感じることができないかもしれません。あるとすれば、『それは面白そう』のみで定義されるでしょう。それが私の生きがいなのかもしれませんね。
お風呂を出るとき、電気を消しました。よく考えれば、電気をつける必要すらなかったのですね。
長年染み付いた無意識の行動は、意識しないと上書きできないものです。
暗闇の中で、洋服を着て、ドライヤーで髪の毛を乾かしました。
見えないのだから、洋服を着る意味も、髪の毛の形の意味も無いのだけど、とりあえずそれは無視していつもどおり実行しておきました。
暗いところが昔から嫌いだったのだけど(理由はお化けとかそういうレベルです)、見えないのだから、怖がる必要はありませんね。
昆虫がいようと、何があろうと、私には認識できませんね。
もし、私に干渉しても、見えないわけですから『気持ち悪い』の要素を無視することができます。
よって、唯一存在する要素は『びっくりする』ぐらいしかないですね。
でも、普通に壁にぶつかったりするのもびっくりします。見えない空間で予想外のことがおきればびっくりしてしまいます。
昆虫と霊魂に存在意義がなくなってしまいました。これは克服したといえるのでしょうか。
脱衣所を後にして、ようやく目を開きました。
メガネを脱衣所に忘れてきたことに気づきました。
あぁ、メガネすら必要ないんだなぁ。